藤田嗣治と愛書都市パリを観る
19世紀末から20世紀の初頭にかけて挿絵本の世界が大きく花開いた。
多くの画家が華麗な本作りを手がけ、愛書家(ビブリオフィル)たちが熱心に収集し、自分好みの表紙をつけて家に飾った。
本展覧会は2部にわかれ、1920年代を中心に挿絵本に熱を入れた藤田の作品と、同時代の画家たちの作品が展示されている。なかなか一堂に会することは少ない貴重な展示だ。
とここまで冷静に書いてきたが、私にはかなりたまらない内容だった。
美しい本に惹かれるビブリオフィルが現在どれくらい残っているのかわからないが、自分は間違いなくその一人だ。本を愛する、それは中身だけでなくものとしての本を愛おしむことだ。装丁や印刷の美しさ、紙の手触り、手になじむ重さ、古い本の香り。五感すべてで本を体験したいという欲求がその根底にある。
本の歴史を考えてみると、本とはもともと貴重な知を詰め込んだオーラをまとった秘物だった。三蔵法師が経を求めて旅をしたように、手にすることができる人は限られ写本による複製さえも簡単には行えなかった。
すべての他のものと同じく、マスプロダクト化とロジスティックスの発達がそれをコモディティ化し商品に変えた。その時、本のオーラは大きく減じてしまったのだ。
この進化が究極に進んだものが電子書籍で、無限の複製と瞬間の配送が可能になる。
しかし、それが本と言えるだろうか?フランス料理の味がする経口カプセルがあれば、レストランに行く必要がないんだろうか?
読書体験とは本を所有し、ページをめくった記憶も含むと私は思う。あの夏の昼下がりの古本屋で買った漱石の最初のページを開いた公園のベンチ。本棚にならんだ本の背表紙には経験の記憶が残っている。コンテンツを脳にインプットするのとは違うのだ。
限定で出版される挿絵本にはマスプロダクトとしての本への反逆がある。他と交換不可能な一回性は本にオーラを取り戻す試みじゃないだろうか。
実際、出版界がかなり縮小した後に残る一つの道は趣味性の高い豪華本の世界のような気もする。万年筆やレコードのように必要とされなくなったテクノロジーはだいたい同じような道を辿っている。
他の観客が挿絵本をアートとして鑑賞する中、一人これらの本を所有できたらという妄想に浸った一日だった。