「ブルックリン・フォリーズ / ポール・オースター」はどんな人が読むべきか?
30才、あるいは60才前後の人生に希望を失いつつある人
将来に期待せず、今に満足もできないある種の挫折を抱えた人たちが偶然の出会いからそれぞれの人生を動かしていく話です。ものすごく前向きにはならなくても偶然を待ってみようかなという気にはなると思います。
標準体重をオーバーしている人
物語の中で二人の人物がダイエットに成功します。自分も自然にそれなりの努力を始めたくなるでしょう。
書くことが好き、本が好きな人
ある意味、書くことと本についての話でもあります。多くの作家やエピソードが紹介され、素敵な古本屋さんも登場します。カフカのエピソードは創作だったとしても一読の価値あり。
ニューヨーク、とくにブルックリン界隈が好きな人
ブルックリンについては多くの小説や映像作品がありますが、どれもその土地への愛情にあふれている気がします。もちろんポール・オースターの筆(あるいはキーボード)からも地元愛が伝わってきます。ニューヨークに住んでいるとオースターの朗読会に参加できるらしい。いつか行ってみたいですね。
村上春樹ファンの人
これまで以上に村上春樹との共通性を感じさせる作品です。ホテル・イグジステンス、文学に関するベダントリー、魅力的でミステリアスな少女。ただし音楽と料理はそれほど登場しません。
ポール・オースターファンの人
もし、あなたが熱心なオースターファンならおすすめするまでもないでしょう。これまで数冊読んでみて、なんとなく良いなと思っている方ならこちらも読んでみてはいかがでしょうか?他と比べると比較的地味で落ち着いた作品かもしれませんが、物語がぐいぐい進んでいく感覚と、細部の描写の素晴らしさ、ちょっとした文体の遊びはやはりオースターならでは。満足できると思います。
追記
この項を9月11日にエントリーするというのは、なんというかオースター的偶然。不思議なものだ。
VUCA - 予測不可能性な未来に対処する(メモ)
VUCAはVolatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(あいまいさ)の頭文字をとった用語で、最近米国などで使われだしている言葉だ。
なにがVUCAなのかといえば、もちろん世界だ。
そのような世界において、決断を下していくことの難しさを多くの人が感じ始めている。
これまでの世界で通用していた、データを集め、分析し、問題を特定して対処していくことで成果を得られるという方法論が通じにくくなっている。思ったよりも常に状況は大きく変動し、未来は不確実で、決定のキーは常に複数あり、それはしばしば矛盾していて、現状はあいまいだ。
そのような世界でどのような対処が考えられるか、それを考えてみた。
第一に認識だ。世界はVUCAなのだと理解すること。そこから不確実性を排除しようとするのではなく、VUCAな世界に漂うように、ある種の忍耐を持って対処するという決意を持つこと。
第二に未来を予測するより、今の行動に集中し完了していくこと。人間は原理的に未来を予測して行動する生き物だが、VUCAな世界ではその努力はむなしい。未来とは現在の積み重ねに過ぎないのだから、未来予測を元に長期的目標を立てるより、短いスパンの計画を達成していくほうが良い目がでやすい。
第三に柔軟性をもつこと。計画はしばしば狂う。完璧で長大なプランをくむより、小さなモジュール化されたプランを組み合わせ、状況に応じて取捨選択すること。
第四に失敗を織り込むこと。VUCAな世界では外部的要因で計画がうまくいかないこともある。失敗はプランのまずさより確率的な現象なので、失敗を避けるよりうまく失敗し、素早くリカバーする方法を考える。一つの失敗が全体に及ばないように全体を設計する。管理されたリスクをとる。
第五にネットワーク的対処すること。中央集権的なシステムより、自律的な行動単位が連動する形をとる。中央集権的なシステムは変化に弱いが、ネットワークなら組み替えで対処できる。
第六に素早く学習し、すぐに実践に繁栄させること。メソッド自体にフィードバックシステムを取り込むこと。過去の成功例にとらわれず、方法論は常に変化すると意識すること。
第七に巨大なデータベースを目指すのではなく、機能するアルゴリズムを目指すこと。
第八に素早く計画し、まずやってみること。そしてその反応を次の計画に繁栄させること。長い時間かけて計画している間に状況は変わる。完璧な計画を作ることより、実践してみた手応えを得るほうが多いに効果的だ。
ざっと書き出してみたが、また今度整理してみよう。
あまりまとまっていないが、まず書いてみるというのはこの項の文意にあっている気もする。
シュルレアリスムとは何か/巖谷 國士を読む
シュルレアリスムはシュール・レアリスムではない。
ここでいうシュールとは超と訳されるが、現実を超えたということではなく、強調の意味の「超」だ。ちょーすげー、のちょーと同じ使い方がされている。
ものすごい現実、それが時に目の前に現れてくるのをとらえようというのがシュルレアリスムのあり方で、一般的にイメージされる想像による幻想的な世界を描くというのとはかなり違う。
では、そのものすごい現実をとらえるにはどうすればよいか?その方法論が色々な形でためされたのもシュルレアリスムの特徴だ。自動記述という方法がある。何の用意もしないままスピードを保った上で、頭に浮かんだことをどんどん書いて行く。するとどこかの時点で思わぬことが記述される。
自分でもやってみたが、スピードを上げると言葉と言葉が思わぬ飛躍をして面白い。ものを描写していたのが、気分の描写になったり、すごく過去の記憶がでてきたり。
意識的な想像ではなく無意識や偶然をつかうことで「ものすごい現実」にアクセスしようという試み。
シュルレアリスムのクールさは主観的なセンチメンタリズムを排して、どこまでも客観的に知的であろうという態度だと思う。今、わざわざこの本を引っ張りだして読み直してみたのは、やはり世間に広がる感情的な言葉にうんざりしてるからかもしれない。
主観的な感情で描かれる現実はケチでチンケだ。ゴシップや反感、不安、安っぽい感動が売り物になっている。
それが私たちの生きている世界だから、否定することはできないし対処していくことも必要だ。だが、それだけでない「ものすごい現実」を追い求めていた人たちがいて、大のおとなが人生をかけていた、そういうことも忘れないようにしたい。
藤田嗣治と愛書都市パリを観る
19世紀末から20世紀の初頭にかけて挿絵本の世界が大きく花開いた。
多くの画家が華麗な本作りを手がけ、愛書家(ビブリオフィル)たちが熱心に収集し、自分好みの表紙をつけて家に飾った。
本展覧会は2部にわかれ、1920年代を中心に挿絵本に熱を入れた藤田の作品と、同時代の画家たちの作品が展示されている。なかなか一堂に会することは少ない貴重な展示だ。
とここまで冷静に書いてきたが、私にはかなりたまらない内容だった。
美しい本に惹かれるビブリオフィルが現在どれくらい残っているのかわからないが、自分は間違いなくその一人だ。本を愛する、それは中身だけでなくものとしての本を愛おしむことだ。装丁や印刷の美しさ、紙の手触り、手になじむ重さ、古い本の香り。五感すべてで本を体験したいという欲求がその根底にある。
本の歴史を考えてみると、本とはもともと貴重な知を詰め込んだオーラをまとった秘物だった。三蔵法師が経を求めて旅をしたように、手にすることができる人は限られ写本による複製さえも簡単には行えなかった。
すべての他のものと同じく、マスプロダクト化とロジスティックスの発達がそれをコモディティ化し商品に変えた。その時、本のオーラは大きく減じてしまったのだ。
この進化が究極に進んだものが電子書籍で、無限の複製と瞬間の配送が可能になる。
しかし、それが本と言えるだろうか?フランス料理の味がする経口カプセルがあれば、レストランに行く必要がないんだろうか?
読書体験とは本を所有し、ページをめくった記憶も含むと私は思う。あの夏の昼下がりの古本屋で買った漱石の最初のページを開いた公園のベンチ。本棚にならんだ本の背表紙には経験の記憶が残っている。コンテンツを脳にインプットするのとは違うのだ。
限定で出版される挿絵本にはマスプロダクトとしての本への反逆がある。他と交換不可能な一回性は本にオーラを取り戻す試みじゃないだろうか。
実際、出版界がかなり縮小した後に残る一つの道は趣味性の高い豪華本の世界のような気もする。万年筆やレコードのように必要とされなくなったテクノロジーはだいたい同じような道を辿っている。
他の観客が挿絵本をアートとして鑑賞する中、一人これらの本を所有できたらという妄想に浸った一日だった。
ブッツィ(Tillandsia butzii)
ブッツィの良さは名前が覚えやすいことと、独特の葉の模様だ。
植物らしくない一見ヘビの皮みたいなパターンが根元から葉の先まで延々と続いている。あまり葉数が多くなく、太くてどっしりしたのがゆっくりうねりながら伸びていて、そちらもさらにヘビ感を盛り上げる。
この株はブッツィにしては大きく育っているのだが、一向に太くならずただ長く伸び続けていてヘビ感を失いつつある。植物の徒長はたいてい水のやり過ぎが日照不足が原因だが、エアプランツはあまり日光に当てすぎると枯れるし、水はそもそもあまりあげない。第三の要素である風あたりに何か関係しているのか。
根元のほうの模様がくっきり見えるあたりを眺めて楽しんでいます。
学名 Tillandsia butzii
学名 チランジア ブッツイ
パイナップル科(ブロメリア科) Bromeliaceae
原産地 中南米熱帯 熱帯アメリカ~アルゼンチン
本屋の背骨
通販で本を買うのが好きではない。配達の時間に家にいなければならないことや、馬鹿げた箱の始末にうんざりすること、それに以前書いたように地元の書店を応援すべきだと思うのも一つの理由だ。
今日はモンテーニュのエセーを読みたくなったので、原則にしたがって仕事帰りに本屋を4軒まわったが結局見つからなかった。文庫に入っていて絶版になっていないのになぜ補充しないのかと思うが、まぁそれはいい。こういう本は図書館に入っているので過去のデータから売り上げが悪いことがわかっているのだろう。
しかし、本屋の店頭はいつの間にこんなにひどいことになってしまったんだろう?それがこの項のテーマだ。
いつからか書店に並んでるものが圧倒的にダメになった。どうでもいい社長の自分語りとか、クズみたいなノウハウ本とか、ネットに書き散らした文章を適当にまとめただけの本とか、どっかで見たような新刊小説とか、そんなものばかりが並んでいる。この中から読むに価する本を探すのは至難の技だ。良書を探すなら時の試練に耐えた本を扱う古本屋のほうが全然効率がいい。
大きな理由は出版不況だろう。売れる本を出さなければならないというプレッシャーが高まり、出版社の仕事の質を変えた。本の面白さを追求するよりも、トレンドを(たぶん)分析したり、他社の動向を(たぶん)分析したりして、会社に企画を通すことに時間をとられている(これは聞いた話だ)。この本は面白いから絶対に売れます!では誰も首を縦に振らないのだ。
結果、書店は単品としては売れる理由を持つ本がランダムに並ぶ場所になった。そこにあるのは個々の返本率と売上という数字であり、集合としての意味はない。そのことが今の書店を魅力のない場所にしている。場の魅力とは一つのコンテクストに基づいた集合によってもたらされるのだ。
売れなくても置いておくべき本がある。それが本屋の背骨だ。昔の本屋だって時代に合わせた、ただ売るためだけの本を扱ってきた。しかし、背後には何年も在庫になったままの継承すべき知の遺産みたいな本たちが潜んでいて、それらが本屋にオーラを与えていた気がする。
ネットで情報を得られるからとか、二次流通の発達とか、出版不況には様々な理由があるだろう。しかし、書店に並んでる本がつまらなくなったり本屋に魅力がなくなったりという本質的な理由について業界の人はどう考えているんだろうか?
古本屋に行くと今でもわくわくする私は、もう新刊書店にあまりときめかないのだ。
人の行動を決定する3つの要素について
人の意思決定は主に感情が影響し、論理がそれを補強したり検証したりする。
いくら理屈が通った話でも感情が働くー快の報酬につながらなければ人は意思決定しない。物を売るには商品の価値だけでなく、ストーリーが必要なのはそのせいだ。
一方で意思決定されたことに対して行動はしばしばそれを裏切る。
英語がはなせるようになれば商売でも有利だし、話してる自分は素敵だなと想像して毎日勉強する!と決めてもなかなかそうはならない。必要だと思って買った本を読まなかったり、転職すると決めても腰がなかなかあがらなかったり、意思決定と具体的な行動は必ずしも一致しない。
なぜかと考えてみると、どのような行動をとるかということに自由意思はあまり貢献しないのではないかというのが私の実感だ。
行動に大きく影響するのは、大きくわけて3つある。身体状況と環境、それに習慣。
身体状況は文字通り肉体がどうなっているかだ。体調だけでなく、テストステロンやセロトニン、インスリンのレベルが保たれているかどうか。我々は肉体の支配から逃れるのは難しい。身体のバランスを欠いた状態で新しい行動を起こすのは不可能に近い。
環境は、身の回りのセッティングだけでなく、交友関係、使える時間を含む外的要因だ。我々は自主的に生活を組み立てているように見えて案外、環境に適応しているだけのような気がする。新しい行動を生活に組み込むには、それを行える環境を用意する必要がある。
習慣については多くが語られている。人間は習慣の動物であることは間違いない。多くの情報を処理しつづけることはコストがかかるので、パターン化することでそれを避けている。昨今のネットサービスはそのことをよくわかっていて人に習慣化させることを競っている。新しい行動を習慣化するには既存の習慣を改変しなければならない。
何か目標を立ててそれを実行しようとするなら、決意を固めるよりもこれら3つを整えた方がよい。身体をメンテナンスし、環境をつくり、今の習慣を一つやめて新たな習慣を加える。人にはものすごく現状維持バイアスが働くので具体的な作業の積み重ねでしか行動を変えていくことはできない。