シュルレアリスムとは何か/巖谷 國士を読む
シュルレアリスムはシュール・レアリスムではない。
ここでいうシュールとは超と訳されるが、現実を超えたということではなく、強調の意味の「超」だ。ちょーすげー、のちょーと同じ使い方がされている。
ものすごい現実、それが時に目の前に現れてくるのをとらえようというのがシュルレアリスムのあり方で、一般的にイメージされる想像による幻想的な世界を描くというのとはかなり違う。
では、そのものすごい現実をとらえるにはどうすればよいか?その方法論が色々な形でためされたのもシュルレアリスムの特徴だ。自動記述という方法がある。何の用意もしないままスピードを保った上で、頭に浮かんだことをどんどん書いて行く。するとどこかの時点で思わぬことが記述される。
自分でもやってみたが、スピードを上げると言葉と言葉が思わぬ飛躍をして面白い。ものを描写していたのが、気分の描写になったり、すごく過去の記憶がでてきたり。
意識的な想像ではなく無意識や偶然をつかうことで「ものすごい現実」にアクセスしようという試み。
シュルレアリスムのクールさは主観的なセンチメンタリズムを排して、どこまでも客観的に知的であろうという態度だと思う。今、わざわざこの本を引っ張りだして読み直してみたのは、やはり世間に広がる感情的な言葉にうんざりしてるからかもしれない。
主観的な感情で描かれる現実はケチでチンケだ。ゴシップや反感、不安、安っぽい感動が売り物になっている。
それが私たちの生きている世界だから、否定することはできないし対処していくことも必要だ。だが、それだけでない「ものすごい現実」を追い求めていた人たちがいて、大のおとなが人生をかけていた、そういうことも忘れないようにしたい。