代官山日乗

自覚さえすればどんな生活にだって深い意味が出来る。

代官山蔦屋書店デ万年筆ヲ買フコト

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東京ほどセレクションの多い街はない。

手間さえかければ世界中のほとんどのものが手に入るし、その手間も実はそれほどたいしたものではない。難しく、時間がかかり、楽しくもあるのは何を選ぶのかという選択にある。必要なのは自分なりの見識で(それも借り物で間に合ったりもするが)、試行錯誤しながら自分なりの見識を育てていくのが都市生活の醍醐味なんじゃないだろうか。

代官山蔦屋書店の一つの売りは文具コーナーだ。中でも圧巻なのが壁一面にディスプレイされた万年筆でその数は2000本を越える。天井まで続く万年筆の森を見ると、人はこの中からどのように自分の一本を選ぶのだろうかと考えてしまう。

万年筆産業は教育の普及と郵便の発達によって文字を書く需要が爆発的に伸びた時期に大きく成長した。それが素晴らしい製品であること社会的変化の両方が伴って一つの産業は興隆する。腕のいい万年筆職人は結構な給料をとり、腕一つで全国どこでも渡って行けたそうだ。気が向けば別の土地に移動し、部屋付きで雇われて飽きたらまた別の土地にいく。随分うらやましい生き方に見える。

しかし、ボールペンの登場により事態は一遍する。たびたびインクを入れる必要もなく、手軽に取り扱えるこの製品はあっというまに万年筆を駆逐し、多くの職人は仕事替えを余儀なくされた。結局、高級なアクセサリー、あるいは趣味人の手なぐさみとして今日までかろうじて命脈を保っている。

話を戻そう。そもそも実用という意味ならボールペンでいいし、もう離婚届のサインくらいにしか文字を書く機会もないのだから万年筆を買うという行為は「選ぶ」ゲームだ。色や形が気に入ったという即物的な選択もあるし、インクの吸い上げ機構の面白さというメカニズムの嗜好もある。あるいは他の多くのものと同様にブランドを選ぶというアプローチもあるだろう。ブランドヒストリーを知り、その伝統や作家など過去のユーザーに憧れてファンになる。あくまでも機能原理主義で最高の書き味を求めるというのも一つの手だ。買い物にしか使わなくても時速300Kmでる車を買う人もいるのだから。

その人の選択には何か一貫した個性というものが垣間見える。あるいはこの平和な資本主義社会で個性というものがあるならば、消費の場にしか現れないという気もする。あなたが誰かというのはあなたが何を持っているかに表れるのだ。


パイロット万年筆 キャップレス・デシモ ブラック 細字(F) FCT-15SR-BF
自分が買ったのは、このパイロットのキャップレスだ。尻のボタンをノックすることでペン先全体が本体に出し入れされて、いちいちキャップをはずす手間がない。ボールペンの台頭に対抗するために万年筆陣営の最後の抵抗として1963年に登場した。カートリッジとペン先を一つの機構に収納したり、キャップがなくてもペン先からインクがたれない微妙な溝の調整をしたりと技術の粋をあつめて世に出たこの万年筆は一定の戦果を納めつつも、戦局自体を大きく変えることはできなかった。

さて、この選択は私のどんな個性を表しているのだろうか?もう老人しかやっていないコイン収集や、同じくらいすたれているサボテン園芸にかける情熱と組み合わせると何かが見えてくるのだろうか。見えた所で困ってしまうわけだが。