代官山日乗

自覚さえすればどんな生活にだって深い意味が出来る。

代官山蔦屋書店 既視感につつまれた空間で考えたこと

結局引っ越していない。

 

面倒だがやる必要があることは、やる必要はないがとてもやりたいことにいつも負けてしまい、前の投稿から半年以上たった。ブログを書くというのはやってみたいが面倒なことで両者の中間に位置する。さすがに引っ越しの準備を始めないとまずい時期にきて面倒なことにとりかかろうという気分になり、ブログも再開した次第。

 

例の蔦屋書店にはコンビニ感覚で通っている。近所のコンビニがつぶれてしまったので実際に1階のコンビニにも用があるわけだが。ある程度時間がたち、店のコンセプトも人口に膾炙するようになった。いわく「大人のツタヤ」だそうだ。日本は高齢化が進み、可処分所得が高いのも中年以上ばかりなので商売としては正しい。しかし、大人のファッションビルや大人の雑誌ばかりできて若者は立場がないんじゃないだろうか。少なくとも本屋は知を愛する人なら小学生から老人までこれるような店が自分は好きだ。

 

確かに品揃えは豊富で何より遅くまでやっている所がいい。頻繁に利用しているので文句ばかりも言えないが、一つ違和感を感じ続けていることがある。それは映画の特集やディスプレイが妙に回顧的で、既視感にあふれている点だ。長く生きていると過去を懐かしみたくなることもある。だが、自分のたどった道のりを振り返って現在の自分を肯定するような感覚はあまり自分になじまない。

 

私は本や音楽、映画を未知の自分に出会うために必要としている。新しいもの、まだ踏み入れていない領域に触れることで少しだけ自己を革新できる。それは大人と言われる年齢になっても変わらないのではないだろうか。

 

ビジネスの必然性から生まれた「大人」向けのコンセプトは、すでに評価が定まったものを並べただけだったり、やたら高級だったり、ノスタルジーにあふれていたりする。大人とは経験による自分なりの一貫した審美眼を持ち、時にはそれを変えることも辞さず、新しい領域に飄々と切り込んでいく力を持った人のことだと思うのだが。