代官山日乗

自覚さえすればどんな生活にだって深い意味が出来る。

ひとりよがりのものさし

ひとりよがりのものさし

なじみのギャラリーで今度、松濤美術館で開催される「古道具、その行き先」という展覧会を紹介された。

いわゆる李朝とか古伊万里でなく、様々な古道具を見立てで美を見つけるという先駆者の方だと聞いてがぜん興味がわき、店主の坂田さんの出されている本を購入してみた。

 

「ひとりよがりのものさし」、まずタイトルがいい。それに私が好きな函に入った本で表紙もクロス張りだ。最近、本に何が書いてあるかはどうでも良くなってきた。所詮何を読んでも、たいして変わりはない。本で人生が変わるには年を取りすぎてしまったのだ。

 

本の佇まいや、紙の感じ、開けた時の匂いなんかにぐっとくる。電子書籍?私の知らない所でやってくれればいい。私が生きてる間は紙の本も残っているだろう。それにしがみついて紙の山に埋もれて朽ちていきたい、そんなことを考えている。

 

さて、本の中身も大変結構だ。見開きで一つづつ様々なモノのすばらしい写真と洒脱な文章が掲載されている。西洋カルタ、虫籠、ロシアイコンなど一見脈絡のないものが、一つの個人的な美の基準で選ばれている。

 

モノを選ぶという作業は、いつのまにか価格や歴史的価値で階層化されたモノの体系から自分の予算にあって、かつ納得できるものを買うというだけのことになってしまった。自動車でもカメラでもまず体系を理解し、それを読み解いていくという作業はそれなりに面白いが何度も繰り返していると莫迦らしくなってくる。

 

モノの体系から離れ、モノそのものに対峙して何かを選択する。それには坂田さんのいう自分のものさしをもつ必要がある。それはほかの誰のものでもない自分だけの世界を育てていくことからしか生まれない。ネットが普及してどうもいただけないのは、多数決が何かの基準になっていることだ。みんなが推薦するレストラン、レビューの点数がいい本、何千回のRT。

 

まったく知らない他人の意見をただ参考にしているつもりが、いつの間にかそれに取り込まれてしまう。便利に生きてる気がしても、それは他人の考えをなぞってるだけのことだ。何だって楽な方がいいという考えもあるだろう。しかし、そこにはグルーヴがない。大事に育ててきた自分だけの世界と呼応するものを見つけた時、スパークする何かが私は好きだ。