代官山日乗

自覚さえすればどんな生活にだって深い意味が出来る。

本屋の背骨

通販で本を買うのが好きではない。配達の時間に家にいなければならないことや、馬鹿げた箱の始末にうんざりすること、それに以前書いたように地元の書店を応援すべきだと思うのも一つの理由だ。

 

今日はモンテーニュのエセーを読みたくなったので、原則にしたがって仕事帰りに本屋を4軒まわったが結局見つからなかった。文庫に入っていて絶版になっていないのになぜ補充しないのかと思うが、まぁそれはいい。こういう本は図書館に入っているので過去のデータから売り上げが悪いことがわかっているのだろう。

 

しかし、本屋の店頭はいつの間にこんなにひどいことになってしまったんだろう?それがこの項のテーマだ。

 

いつからか書店に並んでるものが圧倒的にダメになった。どうでもいい社長の自分語りとか、クズみたいなノウハウ本とか、ネットに書き散らした文章を適当にまとめただけの本とか、どっかで見たような新刊小説とか、そんなものばかりが並んでいる。この中から読むに価する本を探すのは至難の技だ。良書を探すなら時の試練に耐えた本を扱う古本屋のほうが全然効率がいい。

 

大きな理由は出版不況だろう。売れる本を出さなければならないというプレッシャーが高まり、出版社の仕事の質を変えた。本の面白さを追求するよりも、トレンドを(たぶん)分析したり、他社の動向を(たぶん)分析したりして、会社に企画を通すことに時間をとられている(これは聞いた話だ)。この本は面白いから絶対に売れます!では誰も首を縦に振らないのだ。

 

結果、書店は単品としては売れる理由を持つ本がランダムに並ぶ場所になった。そこにあるのは個々の返本率と売上という数字であり、集合としての意味はない。そのことが今の書店を魅力のない場所にしている。場の魅力とは一つのコンテクストに基づいた集合によってもたらされるのだ。

 

売れなくても置いておくべき本がある。それが本屋の背骨だ。昔の本屋だって時代に合わせた、ただ売るためだけの本を扱ってきた。しかし、背後には何年も在庫になったままの継承すべき知の遺産みたいな本たちが潜んでいて、それらが本屋にオーラを与えていた気がする。

 

ネットで情報を得られるからとか、二次流通の発達とか、出版不況には様々な理由があるだろう。しかし、書店に並んでる本がつまらなくなったり本屋に魅力がなくなったりという本質的な理由について業界の人はどう考えているんだろうか?

 

古本屋に行くと今でもわくわくする私は、もう新刊書店にあまりときめかないのだ。